キィの日記

趣味のお話とか

61 『響-HIBIKI-』感想

www.hibiki-the-movie.jp

 

 実質『湾岸ミッドナイト』。

 『湾岸ミッドナイト』が朝倉アキオ、悪魔のZという神と、彼らに振り回される走り屋の物語であったように。

 この『響-HIBIKI-』もまた鮎喰響という天才小説家と、その周囲の人間の物語だ。

 『響-HIBIKI-』について特筆すべきは、鮎喰響という神の中にある人間性の描写だ。『湾岸ミッドナイト』においては、神である主人公・朝倉アキオの描写よりもむしろ、人間である周囲の凡人の描写に比重が置かれている。対してこの映画『響-HIBIKI-』では、鮎喰 響という人間をどう見せていくか、という事に比重を置いているように感じた。言ってしまえば、鮎喰響以外のキャラクターはかなりの部分を鮎喰響に従属している(ただ、従属から脱しようと試みた形跡が残っているので、その点はかなり好感が持てる)。

 その肝心の鮎喰響の描写に関して、最も作り手が迷っていたのは、「神としての鮎喰響」「人間としての鮎喰響」、その二人をどう接続すべきかであろう。

 というか、「神としての鮎喰響」をやりたい人間と「人間としての鮎喰響」をやりたい人間がいて、その誰かが喧嘩しているような印象だった。それぐらい「神としての鮎喰響」と「人間としての鮎喰響」の接続はかなりギクシャクしている。

 そのギクシャクをスクリーン上でなんとかギリギリ違和感ないかなぁ、というレベルにしているのが他でもない主演の平手友梨奈である。

 脚本上、演出上で「神としての鮎喰響」「人間としての鮎喰響」の接続は失敗している。

「神としての鮎喰響」、即ち「小説という行為において背信した者を裁き、或いは愛し、或いは応援する創作の神としての鮎喰響」の描写は過剰である。とても舞台的というか、漫画的というか、スクリーンに映した時やりすぎになってしまう類のものなのだ。エンターテイメント性に振った描写なのだ。

 対し、「人間としての鮎喰響」、即ち「創作の神を担う傍ら、自身の小説を読んで感想を貰えるとニヤけてしまったり、動物園で友人とはしゃぐ鮎喰響」の描写はスクリーンにした時、絶妙によく映える。僕はこっちのリズムで「神としての鮎喰響」も描写すべきだったと思う。双方の鮎喰響を断絶する意味はこの作品に於いてはあまり意味が無いように思った。なぜなら鮎喰響は双方の断絶について悩まないからである。そもそも断絶していると思っていないのである。双方の鮎喰響を断絶させるのは鮎喰響に従属しているキャラクター、或いはこの映画を観ている我々自身、或いはこの映画を作った誰かであって、鮎喰響自身は鮎喰響を鮎喰響としか思っていない。鮎喰響をやりたいなら、こっちのリズムで神を描写した方が絶対にスクリーン映えする。

 これだけ鮎喰響の描写で断絶が起こってしまっているのは、制作側の意思統一に何らかの問題が起きたのではないかと推測してしまう。

 その最たる例がこの映画の主題歌『角を曲がる』だ。秋元康が作詞したこの歌は「本当の自分を分かってくれない周囲に対して葛藤している誰か」の歌だ。多分、当初鮎喰響はそういうキャラクターになるはずだったのかもしれない。しかし、本編の鮎喰響はそんなことで葛藤しない。というか、葛藤という機能がそもそも搭載されてない。まるで特殊な知的障害か、発達障害のような挙動をする。「本当の自分を分かってくれない周囲」の事をなんとも思っていない。もしその「周囲」が自分に仇なすならば問答無用で排除するが、その周囲が自分に干渉しないならば放置するだろう。そこに通常人間が感じるような葛藤は無い。

 だからこの歌は鮎喰響の歌じゃない。

 これは最も分かりやすい例だが、その他にも言葉にしづらいリズムみたいなところで、制作側が鮎喰響の描写を迷っている印象を感じた。

 それを平手友梨奈という役者はギリギリで接続している。スクリプト上で引き裂かれかけている鮎喰響をちゃんと接続して一人の人間に造形し、スクリーンに持ってきている。僕は本当に感動してしまった。この難しい問題を、役者がどうにか出来る範囲で可能な限り最良の回答をしている。

 この平手友梨奈の鮎喰響に対する回答を見に行くだけでも劇場へ足を運ぶ価値があると僕は思う。