キィの日記

趣味のお話とか

65 ア、糞

 秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。
 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗の花も、夏になるとすぐ咲いているのを発見するし、蜻蛉だって、もともと夏の虫なんだし、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいるのだ。
 秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼の詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者である。 

太宰治『ア、秋』https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/236_19996.html

  2週間前まで僕はパンツ一丁で寝ていた。夏用の毛が生えてないナイロンのシーツの上で寝ていた。薄いタオルケットで腹部を覆い、エアコンはつけっぱなしで寝ていた。
 翻って今日。早朝の僕は、糞を漏らすか、漏らさないか、という瀬戸際で電車に乗り、バイトへ、学校へ通っている。
 始業前のビル清掃バイトをやっている。自宅から勤務地まで30分以上かかるから、いつも朝4時に起きて支度をする。そうして浴びる早朝の空気は、申し訳程度に羽織ったカーディガンを簡単に通過し、僕の肉体へ直接刺さってくる。主に腹部に、胃腸に、突き刺さる。
 この2018年の9月は、例年に比べても異常な寒暖差なのだろうが、太宰が「ずるい悪魔」と称すのも、さもありなんといったところである。

「秋など存在しない。騙されるな」
そう主張する人間がいる。ダ・ヴィンチ・恐山(@d_d_osorezan)(おもしろツイッタラーランキング37位)である。

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 曰く、「秋とは夏と冬をつなぐグラデーションに過ぎない。秋が存在するならば、春と夏をつなぐグラデーションに相当する季節(即ち梅雨)を加えて五季でなければおかしい」
 実際のところ、秋という季節は掴み所が無い。秋と言われてイメージするのは、9月~10月ぐらいであろうか。しかし残暑は9月半ばまで続く。そのくせ、ある地点を越えると、僕が腸を滑り降りようとする糞と格闘することになる。
 糞を漏らすのは嫌なことである。一度、ゲーセンで糞を漏らしたことがある。当時、中学一年生の僕は『頭文字D5』をプレイしていた。その店の『頭文字D5』は100円2クレジット、即ち100円で2回プレイが出来た。1クレ目で腸が不調を訴えた。しかし、僕は2クレ目があるので、それを誤魔化した。いざ漏れた時、シートに糞が付着しないように、目一杯ハンドルに体重をかけて尻を浮かせたままプレイした。
 最初は屁だと思っていた。急いでトイレに駆け込みパンツを確認した。ほんの少し色づいていた。ズボンまで達していたら、と思うと恐ろしかった。
 帰りの自転車のサドルがいつもより鋭利に感じた。尻に糞を塗り込むために作られたみたいだった。
 家族にバレないように、留守のうちに庭のホースを「ジェット」に設定して洗い流した。糞に直接触れるのは嫌だった。
 もしも、あの時、あの『頭文字D5』が2クレじゃなかったならば、僕が糞を漏らすことは無かったのだろうか。
 母が庭に植えた小さな木が、少しだけ色づいていた。

江波光則『我もまたアルカディアにあり』 感想

 天国は見つかったか。

 

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫JA)

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 人の一生は何のためにあるのか。その解答の中で最もポピュラーなものの一つは「天国の探求」ではないだろうか。
 宗教を例に取る。西アジア諸国で信仰された天国とは「ここではないどこか」であった。キリスト教においては遠い将来やってくる「神の国」であるし、仏教においては「輪廻からの解脱」である。いずれにせよ地上と縁切りすることがゴールに設定されている。これは気候や土地が人間にとって過酷な座標に住む民族が求めた天国だ。
 一方の中国を始めとする東北アジア諸国ではどうか。ここでは主に儒教が信仰される。儒教にとっての天国とは、この地上である。儒教においては死してもまたいつかこの地上へ生まれ変わる事が至上の喜びとされる。これは先に上げた西アジア諸国よりも東北アジア諸国が比較的住みやすいことに起因するのではないかと考察される。

 

 地上の楽園「アルカディアマンション」。アルカディア=理想郷と名付けられた巨大シェルターには殆ど全ての日本国民が生活保護受給者として住んでいる。そこでは何もせずとも衣食住が保証され、何をするも自由だ。絵を描いてもいいし、物語を書いてもいいし、望むなら肉体労働も用意されている。

 しかし、マンションの外は放射能や有毒ガスに侵され、誰も生身で外に出ることは叶わない。人々はこの理想郷に生まれ、育ち、子を成して、老いて死んでいく。
 この地上の楽園の中で、人々は一体どんな天国を発見するだろうか。
 
 本作はハクスリーの『すばらしい新世界』に類するディストピアものであり、同時に核戦争で崩壊した世界を歩くポストアポカリプスものでもある。短編連作でそれぞれ違う人物にクローズアップするというスタイルを取っているため、ハクスリーのそれよりもより様々なキャラクターにぐっと寄り添った内容になっている。

 故に「人間にとって天国とは?」という問いよりも「個々人にとって天国とは?」という問いの方が大事にされている。

 ディストピアなマンションと、ポストアポカリプスな荒野をのんびり散歩出来る物語だ。

 

「……俺はアホなりに色々考えたよ、親父」

 空港でそう言った。親父は偽造パスポートの癖にファーストクラスのラウンジにいた。

 偽造だと知ったのは随分後だったが。

「天国とか理想郷とかって、このラウンジみたいなもんだろ、要するに」
 フライトを待つまで時間を過ごすこの空間がきっとその縮小版なのだろうと思った。暖かすぎず涼しすぎず、混雑もなく、落ち着いた音楽が微かに流れ耳障りにもならず、酒も食い物も飲み食いし放題で、何と風呂にまで入れる。
 何のことはない、国際空港のここに、現世に、もう理想郷は存在する。
(中略)
「ここに住みたいと思うか、アル・ジャンナ」
「住みたくはねえな、こんなとこ。たまに来るならいい」
「もし仮に、ここに住め、と言われたらどうする?」
 しばらく俺はぼんやりと、ラウンジを眺めていた。身なりのいい雑多な連中は、外国人が目立った。親父からしてそうなのだが。
「……ここから自分じゃ出ていけない、として?」
「そうだ、ここで育ちここで家族を作って、そしてここで死ぬ」
「まっぴらだね。それこそガラス叩き破るか火でも点けて、ここをジャハンナムに変えてやるよ、きっと俺は」

 

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫JA)

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すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

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63 テキスト上では主観的時間が流れる

 映像を目にした時、30秒の映像であれば30秒、1時間の映像であれば1時間、確実にその時間拘束される。したがって映像というメディアには常に客観的時間が流れていると言える。

 対してテキスト上で流れる時間は主観的時間である。1冊の本を読み終わるまでに、ある人は1日、ある人は1週間かかる。本に触れている時間の和が全く同じになることは殆ど無い。これはテキスト上で流れている時間が主観的である証左に他ならない。

 では、この本というメディアを誰かに読み聞かせてもらったらどうだろう。読み終わるまでの時間は十人が十人同じになるはずだ。

 なぜこのような現象が起きるのだろう。その答えはテキストというメディアの特殊性にある。

 テキストとは、いわば圧縮されたファイルだ。そのままの状態では閲覧に適さない。故にその意味を読み取り、脳内で別の何かに変換することでそれを「読む」。或いは音読することで音声ファイルに変換して入力する。

 この「読む」という過程が他に比べて特殊なのだ。例えば音声や映像のような客観的時間が存在するメディアには、それを脳内に入力して噛み砕くまでにある一定の時間制限が存在する。もちろん、再生速度をゆっくりにしたり、或いは速くすることで読書に近い主観的時間を得ることは出来るかもしれない。しかし、再生速度の変更はそのメディアが本来意図していた情報を歪めてしまう可能性が高い。映画を倍速で再生してしまえば、作り手が表現したかった「間」など本来意図していたスクリーン上の時は消滅することとなる。

 では、「読む」という入力はどうだろう。「読む」とはどこまでも主観的な行為である。そこには他の誰も干渉することが出来ない。ゆっくり読んでもいいし、速く読んでもいい。「読む」という行為において速度は誰にも指定されない。映像や音声にそんざいする「間」もテキスト上で視覚的に表現されており、その時の流れは現実時間と完全に独立している。故に「読む」とはどこまでも主観的な行為なのだ。

 現実時間からの逸脱という特殊な体験を得ることが出来るメディアはテキストの他にあまり無いのではなかろうか。テキストに触れる上で私が最も愛している特徴の一つだ。

62 解像度上がる

 僕たちが生まれた時、目の前にいた物体は「物体」に過ぎなかった。それが徐々に「人間」と定義され、「助産婦」「母親」「父親」と定義され、少しずつ詳細に対象を認識できるようになる。もっと先へ進めば、それぞれの人間の名前、趣味趣向、生い立ちetc……どこまでもディティールを詰めていく事ができる。

 これを僕は「解像度が上がる」と呼んでいる。僕はこの瞬間が好きだ。

 例えば、数ヶ月前の僕にとってバイクは「バイク」でしかなかった。街でバイクが走っているのを見かけても「あ、バイクだ」それ以上の出力は僕の中で起こらなかった。それがふと思いったって教習所に通い、いざ自分が購入するバイクを色々検討するようになると「あれはヤマハのSR400だな」とか「あれはカワサキのninja250だな」とか「バイク」以外の情報が出力されるようになるのである。

 或いは、数年前の僕はゲイと聞けばオネエとイコールであって、それ以上の出力は無かった。ゲイビデオと聞けば、それはオネエ同士が絡むアダルトビデオなんだろうと思っていた。それがあるインターネットスラングの登場で多くのゲイビデオに触れる機会を貰ってからは、ゲイビデオに対する解像度はまるで変わってしまった。肥満の中年男性を専門に扱うゲイビデオ会社、女性向けのゲイビデオを専門に扱う会社、都内の大学生など小遣い稼ぎ目当てのヘテロ男性素人男優を数多く起用する会社……。

 こうして既存のモザイクがかった認識が、まるで旧式のゲーム機から新型のゲーム機に買い替えたみたいにまるで変わってしまう瞬間がある。

 先に挙げた例は物体の定義、形あるものの定義に関するものだが、もちろん感情や思想のような形の無いものに対してもこの化学反応は起こる。

 好きな歌詞の意味が、好きな小説の一節が、好きな俳優がスクリーンで演じた一瞬の仕草が、時間を経て「あれは、これかもしれない」とハッキリ分かったような瞬間がある。

 分かったように思うだけだから、本当は分かっていないかもしれない。ヤマハのSR400だって、本当はホンダのクラブマンかもしれないし、カワサキエストレヤかもしれない。

 ちゃんと見えるように、何度も見返すことにする。

 

※SR400を始めとしたクラッシック風バイクの車種をチラ見で見分けるのは非常に難しい。好きな人ならメーカーロゴ隠されても分かるんだろうけれど……。

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61 『響-HIBIKI-』感想

www.hibiki-the-movie.jp

 

 実質『湾岸ミッドナイト』。

 『湾岸ミッドナイト』が朝倉アキオ、悪魔のZという神と、彼らに振り回される走り屋の物語であったように。

 この『響-HIBIKI-』もまた鮎喰響という天才小説家と、その周囲の人間の物語だ。

 『響-HIBIKI-』について特筆すべきは、鮎喰響という神の中にある人間性の描写だ。『湾岸ミッドナイト』においては、神である主人公・朝倉アキオの描写よりもむしろ、人間である周囲の凡人の描写に比重が置かれている。対してこの映画『響-HIBIKI-』では、鮎喰 響という人間をどう見せていくか、という事に比重を置いているように感じた。言ってしまえば、鮎喰響以外のキャラクターはかなりの部分を鮎喰響に従属している(ただ、従属から脱しようと試みた形跡が残っているので、その点はかなり好感が持てる)。

 その肝心の鮎喰響の描写に関して、最も作り手が迷っていたのは、「神としての鮎喰響」「人間としての鮎喰響」、その二人をどう接続すべきかであろう。

 というか、「神としての鮎喰響」をやりたい人間と「人間としての鮎喰響」をやりたい人間がいて、その誰かが喧嘩しているような印象だった。それぐらい「神としての鮎喰響」と「人間としての鮎喰響」の接続はかなりギクシャクしている。

 そのギクシャクをスクリーン上でなんとかギリギリ違和感ないかなぁ、というレベルにしているのが他でもない主演の平手友梨奈である。

 脚本上、演出上で「神としての鮎喰響」「人間としての鮎喰響」の接続は失敗している。

「神としての鮎喰響」、即ち「小説という行為において背信した者を裁き、或いは愛し、或いは応援する創作の神としての鮎喰響」の描写は過剰である。とても舞台的というか、漫画的というか、スクリーンに映した時やりすぎになってしまう類のものなのだ。エンターテイメント性に振った描写なのだ。

 対し、「人間としての鮎喰響」、即ち「創作の神を担う傍ら、自身の小説を読んで感想を貰えるとニヤけてしまったり、動物園で友人とはしゃぐ鮎喰響」の描写はスクリーンにした時、絶妙によく映える。僕はこっちのリズムで「神としての鮎喰響」も描写すべきだったと思う。双方の鮎喰響を断絶する意味はこの作品に於いてはあまり意味が無いように思った。なぜなら鮎喰響は双方の断絶について悩まないからである。そもそも断絶していると思っていないのである。双方の鮎喰響を断絶させるのは鮎喰響に従属しているキャラクター、或いはこの映画を観ている我々自身、或いはこの映画を作った誰かであって、鮎喰響自身は鮎喰響を鮎喰響としか思っていない。鮎喰響をやりたいなら、こっちのリズムで神を描写した方が絶対にスクリーン映えする。

 これだけ鮎喰響の描写で断絶が起こってしまっているのは、制作側の意思統一に何らかの問題が起きたのではないかと推測してしまう。

 その最たる例がこの映画の主題歌『角を曲がる』だ。秋元康が作詞したこの歌は「本当の自分を分かってくれない周囲に対して葛藤している誰か」の歌だ。多分、当初鮎喰響はそういうキャラクターになるはずだったのかもしれない。しかし、本編の鮎喰響はそんなことで葛藤しない。というか、葛藤という機能がそもそも搭載されてない。まるで特殊な知的障害か、発達障害のような挙動をする。「本当の自分を分かってくれない周囲」の事をなんとも思っていない。もしその「周囲」が自分に仇なすならば問答無用で排除するが、その周囲が自分に干渉しないならば放置するだろう。そこに通常人間が感じるような葛藤は無い。

 だからこの歌は鮎喰響の歌じゃない。

 これは最も分かりやすい例だが、その他にも言葉にしづらいリズムみたいなところで、制作側が鮎喰響の描写を迷っている印象を感じた。

 それを平手友梨奈という役者はギリギリで接続している。スクリプト上で引き裂かれかけている鮎喰響をちゃんと接続して一人の人間に造形し、スクリーンに持ってきている。僕は本当に感動してしまった。この難しい問題を、役者がどうにか出来る範囲で可能な限り最良の回答をしている。

 この平手友梨奈の鮎喰響に対する回答を見に行くだけでも劇場へ足を運ぶ価値があると僕は思う。

60 バイクの免許を手にした。

 うおおおおおおおおおおっ。

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 燦然と輝く「普自二」の文字が眩しい。

 これで51cc~400ccまでのバイクに堂々と乗れます。嬉しいです。

 教習所に10万くらい払ったので数ヶ月バイクは買えないです。悲しいです。

 数ヶ月乗らないと不安だから、時々レンタルで乗ったりしようかな。でも一回8000円とかするんだよ。レンタルのバイク。それだったら貯金して早く自分のバイク買いたいなぁって思ってしまうよ。でも買う前に色々乗ったほうがいいのかな。自分が目指すバイク像も分かるのだろうし。

 この前は車検代が浮く250ccがいいかな、なんて言っていたけれど、教習車のCB400に乗っていたら400もいいなあと思ってしまったよ。4気筒のバイクだと排気音もかっこいいし。

 ああでも音とか、車検とか、税金とか、そういうのは本当はどうでもよくって、本当は早く遠くに行きたいだけなんだよなあ。電車とバスだけだと、行けない場所がたくさんあるんだよ。歩くと疲れてしまうような場所があるんだよ。

 

 わくわくしちゃうなあ。素敵だなあ。

57 『SWAN SONG』 切実に生きることについて

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 こんな糞みたいな世界で何かを望むのって本当に疲れると思います。そして、「僕は何も望んでいません」と何らかの形でハッキリ表明しようものなら、落伍者として蔑まれ罵られ孤立していく。だから「望むフリ」「希望するフリ」をして生きていかなくちゃならない。ですよね?

 

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