キィの日記

趣味のお話とか

72 入院したい

 僕が小学生の頃の話だ。僕の父が網膜剥離で一月だか、二月だか入院したことがある。典型的な仕事人間にとっては、長期間仕事から離れるのは人生で初めての事だったに違いない。

 その間、父はひたすら小学生向けの伝記マンガをひたすら読んでいた。母が僕に買い与えたもので、僕も当時よく読んでいた。本田宗一郎サン・テグジュペリベートーヴェン……古今東西の偉人たちのマンガが、20冊ほど我が家にはあった。

 父の書斎には、社会部の新聞記者という職業柄、ノンフィクションの、それも事件に関する本ばかりが並んでいて、偉人の伝記なんて物はそこには無い。彼にとって興味の対象は、専ら現在進行系の日本の社会問題であって、大昔の事や、物語的なものは、あまり勘定に入っていない書斎だった。

 そんな父が、偉人の物語に心動かしている様を、僕は見舞いの度に見かけた。本を求めて父の書斎を隅から隅まで荒らし、彼の価値観を大体把握していた僕にとって、それは異様な光景だった。

「これは本当に面白いな。お前も読んだか」

 などと話しかけてくるので、「もう全部読んだよ」と返してやる。「それは、すごいなあ」と返ってくる。この時僕は、人間が俗世から離れると、時として何か実りある変化を持たらすらしいという事を学んだのだ。

 

 尾崎放哉は須磨寺で作詞の才能に磨きをかけたのであるし、永山則夫は獄中で『無知の涙』を書いたのだ。やはり俗世から距離を置き、思索にふけるということが、人間に何らかの化学反応を起こすことは間違いない。

 俗世間に生きている限り、何かを大量に読み、大量にインプットするという作業は不可能ではなかろうか。

 あの嬉しそうな父の顔を思い出すと、そんな絶望がよぎり、僕は入院したくてたまらなくなる。

 

本田宗一郎―世界一速い車をつくった男 (小学館版学習まんが人物館)

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尾崎放哉選句集

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無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

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