キィの日記

趣味のお話とか

84 扉の向こう側からやってくる虎

 僕の弟は阪神タイガースの歌をよく歌います。

 弟には、分別というものがなく、僕がテスト前だというのに、お構いなしでオン・ステージです。

 六甲おろしに始まり、打順1番から9番までの応援歌まで、阪神タイガースの歌を全部歌います。

 僕は阪神ファンではないし、特定の球団を情熱的に追うタイプではなかったので、ただうるさいだけでした。

 

 シャープな打球グラウンド突き抜けろ

 走れレッドスター赤星チャンス切り拓け

 

 他にも、湘南乃風とか、エグザイルとか、全身に「その手」の文化を纏った彼は、僕を不快にさせます。

 しかもイヤホンとかヘッドホンが嫌いで、常にプレイヤーから垂れ流しです。お金さえあれば、デカいスピーカーから大音量で流していたんじゃないでしょうか。

 僕は自分の部屋にこもってブツブツと歌います。『天使のいない12月』の曲を歌います。

「憂鬱が始まる~♪長過ぎる一日がイヤ~♪」

 それでも、やはりイヤホンの向こう、扉の向こう側から、弟の阪神ソングとその他諸々の音楽が聞こえてくるのです。

 

 シャープな打球グラウンド突き抜けろ

 走れレッドスター赤星チャンス切り拓け

 

 大体、僕は赤星ってあんまり好きではありません。

 パワプロで使いにくいからです。ミートだけA判定で、パワーがF判定なので、ホームランが打てないのです。

 僕は気持ちよくなりたいのです。ローズとかカブレラとかペタジーニとか、そういう選手ばっかり詰め込んだアレンジチームで、ホームランが打てればそれでいいのです。

 観戦する分には、ちょこちょこ動き回る選手はかっこいいけれど、最も僕と時を過ごした赤星憲広パワプロ赤星憲広であって、グラウンドの赤星憲広ではない。

 青森県に住む僕にとって、仙台も北海道もどこか遠い国だったし、まして関西の球団なんて地球外球団です。

 どうして弟がそこまで阪神を好きになれるのかよく分かりませんでした。

 僕は人に好きな球団を聞かれた時、「中日かな」と答えます。濃い青色が好きだったからです。なので、弟が阪神を愛するように、例えば応援歌を全部覚えるようなことを僕はしていませんでした。僕が中日を好きだったのは、他でもないチームカラーのためなのです。したがって、横浜のことも好きでした。青いので。

 

 そんな生活が何年か続いて、僕はいつの間にか、阪神タイガースの応援歌を諳んじることが出来るようになっていました。

 人間関係に疲れて野球部を辞めたばかりの中学2年生の僕には、「阪神タイガースの応援歌を諳んじる事が出来るようになっている」という事実は、あまり歓迎すべきものではありませんでした。

「触れるものを輝か~し~て~い~く~♪」

 自分を見失ってはいけません。アニメの歌と、エロゲーの歌を、口ずさみ続けなくっちゃ、いけません。

 扉の向こう側からやってくる虎に負けないように、口ずさむのです。

「悲し~みにぃ~試されるたび~♪」

「忘れない~誰かの声が~切なく響く~♪」

「そ~らの~隙間から~降り注ぐ~♪」

 知っている限りの歌を、口ずさむのです。

 

 彼の最も恐ろしいところは、そんな男性社会だとかマイルドヤンキーだとか体育会系だとか、そういうものを剥き出しにしたメンタリティをしている癖に、アニオタ・カルチャーにも一定の理解があることなのです。

 僕は知っています。小学生の頃、彼が家族共用のパソコンで『明日のよいち!』のエロ画像を印刷していたことを(別にわざと見たわけではありません。机にそのままプリントアウトした二次エロを置いておく方が悪いんだ。)。

 

 そんな事だから、彼は体育会系全開の田舎の野球部で中心的ポジションにいながら、ラブライブが好きな卓球部の同級生を家に招いたりもするのです。

 彼はどうも外面は良いらしく、野球部の人間からも、他のコミュニティに所属する人間からも高く評価されているようでした。

 そうしてどんな人間とも仲良くやっていく彼に、一抹の憧れを抱きつつ、僕と弟がいつか何のわだかまりもなく普通に暮らせる日も来るんじゃないかと、ワクワクしながら見つめていました。

 

 しかし、家庭での彼は、とにかく自己中心的な男でした。

 阪神タイガースの歌をひっきりなしに浴びせかけることに象徴されるように、彼は自分の願うことなら全て思い通りになると思っているのです。殴る蹴るの直接的暴力はありませんでしたが、自分の主張が通らないとすぐに大声を出して威嚇します。自分の主張が通るまで延々と大声と態度で駄々をこね続けるのです。

 これは父親も時折我々にやって見せることでした。僕は子供の頃、「父は僕が悪いことをしたから正当な権利を行使して叱っているのだ」と思っていましたが、時が経つにつれ、「自分の不快感を晴らすために叫んでいただけだったんだな」と気づくと途端に虚しくなりました。

 朝は母親と弟の口喧嘩で目が覚めます。日常になってしまうと、これが当たり前の微笑ましい家族の風景なのか、完全に狂っているのかもうよく分かりません。とにかく僕が毎日不快な朝を過ごしていたことは事実です。

 それでもお互いに手を上げることは一度も無かったので良かったです。特に弟の方はベンチプレス100キロを簡単に上げる筋肉バカだったので、もし何かの間違いで誰かを殴ることになったら酷いことになっていたと思います。野球部員だったのでその辺りは気をつけて行動していたのかもしれません。

 

 したがって、東京で暮らすようになった今でも、僕は阪神タイガースについての情報を目にすると、中高生の間ずうっと僕の部屋へ放たれ続けた虎の事を思い出すのです。