86 どんな狩りも許される夢
僕は覇王にならなくてはいけない。「肉のカタマリ」になってはいけない。
肉のカタマリは、覇王に蹴られ、殴られ、嬲られ、蹂躙され、覇王の下に跪き導きを乞わなければならない。
なぜなら、肉のカタマリは、卑しくて、つまらなくて、くだらなくて、さもしくて、見苦しくて、どうしようもない食物連鎖の最底辺生命だから。
だから、卑屈に生きていたくないのなら、覇王にならなくっちゃあ、いけません。
食物連鎖の頂点に立たなくっちゃあ、いけません。
覇王になれない人生ならば、自殺するより他に、方法がない。
僕は覇王になりたい。胸を張って、この世界を歩くために。
ただそれだけのために。
「君の覇道というものは、見つかったのかね」
はい、僕はいつかどでかい事をやって、
支配します。
壊します。
復讐します。
僕をずっと退屈させてきた肉のカタマリに。
僕が覇王となって、狩るのです。
「君は今21歳。高校を中退してから3年間家にこもってインターネットを徘徊し。そして20歳の時、肉のカタマリに迎合するかのように、高認を取って親の金で大学に通い親の金で生きながらえている」
うるさい。
これは、戦略的撤退というものです。
僕は志高く着々と覇王への道を歩んでおります。
お前のような肉のカタマリとは違う。
「何が違うんだい?君はいつ覇王になるの?何月何日?地球が何べん回った時?」
見苦しいな。ガキみたいなレトリックを使うなよ。殺したくなる。
「僕は知っているぞ。君がロクに殴れない犯せない殺せない人間だってこと」
本当に殺すぞ。
取り敢えずは、そうだな。このカッターナイフで君を処刑することにする。チキチキと鳴らして処刑することにする。パキパキと新しい刃にして処刑することにする。
もっと上等な刃物でやる方が格好がつくんだろうけれど、今僕の手元にはこれしかないんでね。
「そんな糊で錆びついたカッターナイフで、切れるものかよ」
試してみるか。
「どうぞ」
本当にやるぞ。僕は、僕は本気だぞ。
「どうぞ」
いいんだな。や、やるぞ。
「そんなに脂汗いっぱい出すなよ。気持ち悪い。わかったわかった。僕が悪かったよ。君は狂ってる。普通じゃない。才能がある。人とは違う。カリスマがある。覇王にふさわしい。君の勝ちだ」
バカにするな。
僕をバカにするな。覇王候補生の僕をバカにするな。
「わかったからそのチキチキ鳴らすのをやめなさいよ」
ごめんなさい。
「物分りが良くなったもんだね。さすが21歳」
黙れ。
「肉のカタマリに混じって生活を続けなくちゃいけないみじめな君」
社会参画をしないと、人は相対性を失って怠ける。絶対の覇王になるためには、常に肉のカタマリの存在を頭の片隅に入れとかなくっちゃならない。みみっちい日銭を稼いで必死こいて生きてる肉のカタマリの醜さを、頭に叩き込んで自分を追い込まなくっちゃ。こんな卑しい人生なんて、まっぴらごめんだってね。
「君と同じバイトして、妻子を持ってる40代のハゲ散らかしたネパール人。必死こいて生きてる擦り切れた雑巾のような男。ああはなりたくないものだと、君は思うね?」
バカみたいじゃないか。へ、へ、へ!
「僕には結構、立派に映るんだけれどなぁ」
敗北主義者め。
「そうやって人を見下して。バカにして。それが覇王ってやつなのかい」
覇王にはどんな狩りも許されるんだよ。
肉のカタマリはゴミだ。ウジ虫だ。中学生が授業中机に書きなぐった下ネタだ。昨日の嵐でゴミ捨て場から舞い上がり雨と朝露でカピカピになって通学路に散らばったエロ本だ。食器棚の茶碗の中で干からびて死んでいたゴキブリだ。
だから覇王は肉のカタマリに何をしてもいい。
「リップ・ヴァン・ウィンクルは、目を覚まして家に帰らなくっちゃいけない。帰る場所が無くなっちまう前にね」
これは夢なんかじゃない。
僕にはどんな狩りだって許されるんだ。
「さあ、目を覚まして。君の生活を始めるんだ」
これは現実。だから覚めたりしない。僕が生命活動を続ける限り。覇王を諦めない限り。僕の殺しのライセンスは無期限有効なんだ。
「じゃあなんだい。君のそのザマは一体なんだい。21歳にもなって親の財布でウダウダとモラトリアムをやっている君のザマは一体なんだい。肉のカタマリと言わずしてなんと呼ぶんだい。豚のように醜く太りやがって。鉄を食え。死んでも豚を食って肥えるんじゃない。スーパーで特売の豚肉を買って毎食食う。それが君の牙の届く距離。限界」
僕は覇王だから。ツマラナイ人間を狩る側の人間だから。頭の良い少年少女には、人間狩りが認められているんだよ。
今までも、そしてこれからも透明な存在であり続ける僕には、人間狩りが認められているんだよ。
どんな狩りも許されるんだ。
『すべては赦される』、そうだろ?
「ラスコリニコフもイワンも最後どうなっちまったか、君は知っているね?」
僕はあいつらとは違う。僕は”特別”なんだよ。
だから僕は覇王になるよ。
「17歳だった君はTorを使ってくだらない弁護士にくだらない誹謗中傷を並べ立ててくだらない主張をしていたけれど。君が覇王の器ならTorなんて使わず直接行って燃やして殺してめった刺しにしてくればよかったのに」
あれはそうする価値もないよ。
「スカイプちゃんねるで女の子にばっかりコンタクト送ってた頃の話は?」
一時の戯れさ。
「君の理屈ならば、道行く肉のカタマリを、気に入ったクサレオマンコを見かけ次第その場で殴って殺して犯してやればいいのに」
覇王になるためには、仮初めの快楽で耐え忍ばなくてはならない時もある。
「言い訳はもういいよ。早く原発から核物質を盗んで9番目の核保有国になれ。選挙事務所の女にフラれた腹いせに大統領を殺せ。『漂泊者の歌』を歌いながら銀行強盗をしろ。父親を殺してブリタニア帝国を乗っ取れ」
いいさ。やってやる。やってやるぞ。僕はやる。覇王になるぞ。
「嘘ばっかり」
嘘じゃない。嘘じゃないよ。
「君は意地汚い金貸しの老婆すら殺すことは叶わない」
僕には世界を革命する力がある。
「だったら今すぐそれをやれ」
出来ない。
「だったら死ね。弛緩したまま。ぼんやりと腐っていく魂を定期的に観測しながら、死ね」
僕はカンディードになるのか?
「お前にはカンディードも無理だ。たった一人で孤独に文句を言いながらボンヤリ絶望して死ね」
それはあんまりじゃないのか。
「じゃあ今すぐ死ね」
一体どこで間違った?僕のエーテルを曇らせたのは、一体何だ?
「お前のためにカートが歌ってるぞ。レイプミー。レイプミー、マイフレンド」
無邪気に山田悠介を、江戸川乱歩を、石岡君と一緒に読んでいた。ドラえもんのひみつ道具でしりとりをした。
楽しかった林間学校。石岡君の持ってきたトランシーバーを使って女子の部屋に侵入し小声で実況だけして何もせず帰った。
あの頃、小学生の僕は、限りなく透明で、そしてこれから先もずっとずっと透明であり続けると信じていた。
「You’re gonna stink and burn…」
『どこで』?それがナンセンスな問いであることは分かっているだろうに。ターニングポイントなんかあるものか。気がついたら弛緩してんだ。気がついたら濁ってんだ。
石岡君ごめんなさい。僕は随分濁ってしまいました。中学生になってからも、ちゃんと君と仲良くし続けていれば或いは、僕のエーテルは濁らなかったのかもしれません。
嫌だ。僕は死にたくない。一人にはなりたくない。誰も一人にはなりたくない。それが生きる意味じゃないか!
「そうよ。だからあなたは立って。生きていかなくっちゃ」
須磨寺雪緒ちゃん!?
「生き残ってしまったなら、私たち生きていかなくっちゃならないの。たとえ肉のカタマリになってしまっても」
怖いよ。嫌だ。僕は覇王になれないなら死ぬ。
それより他に、方法がない。
それより他に、方法がない。
でも死にたくない。一人は嫌だ。肉のカタマリにもなりたくない。
何者かになりたいんだ。
覇王になりたいんだ。
「それでもあなたは生き残ってしまう」
やめてくれ。
「汚く老いさらばえて」
助けてくれ。そんなひどいことを言わないでくれ。僕と一緒に死んでくれ。
「生き残るわ。私も、あなたも。そして生活を生きていくの」
嫌だ。この夢から覚めたくないんだ。
だって、今覚めてしまったら、僕はどこに帰ればいい?
目覚めたウィンクルを待つ家など、とうの昔に無くなってしまったろうに。
「あなたは自分の周囲を無視して勝手に悦に入りたいだけ。あなたは手遅れなんかじゃない」
僕は本当に孤独なんだよ。嘘じゃない。信じてくれ。覇王の血統に入れてくれ。僕は肉のカタマリなんかじゃない。覇王なんだよ。
「私もあなたも一人じゃない。覇王でもない。だから、死なない。無様にき生き続ける」
怖いよ。僕には生活が怖い。
「吹雪に閉ざされた牢の中にも、生活はあるのよ」
なんたるザマだ。
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