キィの日記

趣味のお話とか

83 誰も太陽を見ることは出来ないけれど

柱にくくられてさらしものになっても、俺は存在するし、太陽を見ているんだ。太陽が見えなくたって、太陽の存在することは知っている。太陽の存在を知ってるってことは、それだけで、もう全生命なんだよ。

ドストエフスキー 原卓也(訳)『カラマーゾフの兄弟(下)』新潮文庫 211ページより

 

「太陽は見えないけれど、存在するからそれでいい」なんて、強がりだろう?という返答が返ってくるだろうか。僕はそんなに強がりでもないと思う。

 或いは、これを強がりだと言う人は、「止まない雨は無い」と言ったら納得するのだろうか。僕にはとても嘘っぽくて、悲しく思える。ずっと続く幸福が無いように、ずっと続く不幸が無いことはある種の事実であるが、それは無限に続く折れ線グラフであって、為替の相場のように上がったり下がったりが無限に続く。グラフそれ自体が甚く虚しく思えた時、「止まない雨は無い」という言葉は全く力を失ってしまう。

 或いは、「そんなバカバカしい事は考えないで、とりあえず働け!」というカンディード式の解答を、僕に言う人がいるかもしれない。無心で働くことの美しさは、僕もある一定の敬意を払うところだけれども、僕はそんなに賢くないので、そんな風に思うことも、やはり出来ない。無心で働いてる間にも、やはり僕は相場の中に生きているのであって。終わりの無い期待と落胆の中に生きているのであって。その事実それ自体には何の変化も無いのだと、そう思ってしまうことをやめられないのだ。

 とにかくすっきりしない生活が、曇り空みたいな生活が、後にも先にも延々と僕の周囲を隙間なく取り囲んでいる。

 やることなすこと全てがデタラメで、僕はただ雲を極彩色で照らす刹那的照明弾を時々打ち上げることしか出来ない。それはとても刺激的で気持ちが良いものだけれど、極彩色の光は雲を光らせるだけで、終わる。

 こうして全くアテを無くした僕が信仰すべきは一体なんなんだろう。

 それがもし、ひょっとしたら、太陽なのだとしたら。

 想い人と結ばれた直後に、無実の罪で裁かれんとしているドミートリイ・フョードロウィチ・カラマーゾフの言う、太陽なのだとしたら。

 誰も太陽を見ることは出来ない。見ようとすれば、目が潰れてしまうからだ。

 だとしたら、曇り空の日を照らす太陽と、よく晴れた気持ちの良い日を照らす太陽に、何の違いがあるだろうか。

 例え永遠の曇り空でさえ、太陽は必ずそこにあるじゃないか。

 或いは夜だっていい。地球の反対側に太陽があることを、僕は知っているじゃないか。

 或いは太陽が死んでしまったっていい。僕は太陽のことを、もうたくさん知っているじゃないか。

 宇宙に出て、太陽を探すのだ。或いは、自分で作り出したっていいじゃないか。

 

 太陽の存在を知ってるってことは、それだけで、もう全生命なんだよ。

 

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)