キィの日記

趣味のお話とか

63 テキスト上では主観的時間が流れる

 映像を目にした時、30秒の映像であれば30秒、1時間の映像であれば1時間、確実にその時間拘束される。したがって映像というメディアには常に客観的時間が流れていると言える。

 対してテキスト上で流れる時間は主観的時間である。1冊の本を読み終わるまでに、ある人は1日、ある人は1週間かかる。本に触れている時間の和が全く同じになることは殆ど無い。これはテキスト上で流れている時間が主観的である証左に他ならない。

 では、この本というメディアを誰かに読み聞かせてもらったらどうだろう。読み終わるまでの時間は十人が十人同じになるはずだ。

 なぜこのような現象が起きるのだろう。その答えはテキストというメディアの特殊性にある。

 テキストとは、いわば圧縮されたファイルだ。そのままの状態では閲覧に適さない。故にその意味を読み取り、脳内で別の何かに変換することでそれを「読む」。或いは音読することで音声ファイルに変換して入力する。

 この「読む」という過程が他に比べて特殊なのだ。例えば音声や映像のような客観的時間が存在するメディアには、それを脳内に入力して噛み砕くまでにある一定の時間制限が存在する。もちろん、再生速度をゆっくりにしたり、或いは速くすることで読書に近い主観的時間を得ることは出来るかもしれない。しかし、再生速度の変更はそのメディアが本来意図していた情報を歪めてしまう可能性が高い。映画を倍速で再生してしまえば、作り手が表現したかった「間」など本来意図していたスクリーン上の時は消滅することとなる。

 では、「読む」という入力はどうだろう。「読む」とはどこまでも主観的な行為である。そこには他の誰も干渉することが出来ない。ゆっくり読んでもいいし、速く読んでもいい。「読む」という行為において速度は誰にも指定されない。映像や音声にそんざいする「間」もテキスト上で視覚的に表現されており、その時の流れは現実時間と完全に独立している。故に「読む」とはどこまでも主観的な行為なのだ。

 現実時間からの逸脱という特殊な体験を得ることが出来るメディアはテキストの他にあまり無いのではなかろうか。テキストに触れる上で私が最も愛している特徴の一つだ。