キィの日記

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57 『SWAN SONG』 切実に生きることについて

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 こんな糞みたいな世界で何かを望むのって本当に疲れると思います。そして、「僕は何も望んでいません」と何らかの形でハッキリ表明しようものなら、落伍者として蔑まれ罵られ孤立していく。だから「望むフリ」「希望するフリ」をして生きていかなくちゃならない。ですよね?

 

 

SWAN SONG』についてお話します。

SWAN SONG』とは、2005年に発売された18禁ビジュアルノベル、所謂エロゲーです。

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※一時期プレミアが付いていましたが、最近DMMで買えるようになりました。

 大地震に被災した主人公たちが、物資不足やそれに起因する避難所同士の殺し合いに巻き込まれ翻弄されていく物語です。

 この物語における「地震」は少し奇妙な描写のされ方をしています。数ヶ月経っても避難所に救援が来ないのです。まるで、主人公らの世界は既に滅んでしまったかのような描写です。実際、滅んでしまったのでしょう。

 したがって、この物語における「地震」というのは、なんというか、あくまで象徴的なもので、これは震災文学というよりもパッション(受難)の物語だと思っています。つまり、主人公たちが襲われる苦難は地震でも隕石でも宇宙人でも何でも良かった。この世の不条理に対してどう立ち向かうか?というのがこの物語の本質で、震災文学として読むべきではないでしょう。震災に対して切実に向き合った物語は他にあります。

 

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  この作品は、徹底して生きることの無意味さ、空虚さ、ニヒルさを登場人物に語らせます。

 そんな中、ただ一人、主人公・尼子 司(あまこ つかさ)だけは徹頭徹尾、最後まで生きることの素晴らしさを説き続けます。 

 自分たちをずっと追いかけ回してくる不条理とか、絶望とか、そういう超常的なものに負けたままで終わりたくない。だって、必死に頑張ってる自分の方が絶望よりも正しいはずだから。いつの日かそいつに、一発だけでも殴りつけたい。司はこの姿勢をずっと貫き続けます。

 作中随一の絶望ヒロイン・佐々木 柚香(ささき ゆか)は尼子に問いかけます。どうせ死んでしまうのなら、楽しくアハハと笑って余生を過ごした方がいいのではないか?必死で生きるなど疲れるだけではないか?

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 佐々木はこのような思想を震災に巻き込まれる以前から持っていました。佐々木は元々重度のニヒル系メンヘラだったのです。

 そんな彼女に司は答えます。

 必死に生きようと思っていたら、例えそれが間違っていても全力でやってしまうと。アハハと生きてしまうのは、全部に絶望してしまっているからだと。

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 皮肉ですよね。この世に希望などないと理解した人間のうち、絶望しきった者だけがこの世界をアハハと笑って過ごすことが出来る。希望など無いと知った上で切実に人生をやっている人間にはそれが出来ない。地上にしがみつこうとしている人間にはそれが出来ない。

 

 僕は中学生の頃、ある願いを切実に抱いていました。

 「普通になりたい」

  ここで言う普通とは、「善良な両親に恵まれ、善良な友人に恵まれ、生き生きと学校に、仕事に通い、ハツラツと生きている人々」のことだと思います(そんな人間は、本当は存在しないのかも、と今は思いますが、僕は当時確かに「そういう仮定」を見つめていました)。僕は比較的まともな両親のもとに生まれたし、多少コミュニケーション能力に問題を感じることはあっても、友人関係に不自由することはあまりありませんでした。

 それでも僕にはたった一つ、「普通に学校に通う」ということが出来ませんでした。小学生の頃は殆ど休まず通っていたのですが、中学生になると、どうにも日々努力していくことがニヒルに思えてしまったのです。だって、頑張ってもどうせ人は死んでしまうではないですか。あんまり面白くないですよ、それ。

「善良な両親に恵まれ、善良な友人に恵まれ、生き生きと学校に、仕事に通い、ハツラツと生きている人々」は僕の怨嗟の対象でした。彼らは往々にして僕の苦しみを理解しないからです。生きることに対して切実ではないからです。世界を微塵も疑わない人たち。世界に騙されていることに気づいていない人たち。(実のところ、騙されているなりに切実な人はいます。ちょっと話がややこしくなるので今日は触れません。ごめんね)

 両親や教師や友人に「この世が如何に空虚なものであるか」を演説してみるのですが、全く理解されませんでした。彼らはいつも首を傾げるばかりで「どうしてそんなことで悩むの?死ぬのは当たり前じゃん」という姿勢が常にありました。恐ろしいのは、彼らは決して僕をバカにしたりはしないことです。至って真面目に僕の話を聞いて、至って真面目に「どうしてそんなことで悩むの?」という疑問を僕に投げてくるのです。

 僕は善良な人々の中で完全に孤立していました。僕と、善良な人々の間には絶対の壁が存在したのです。

 こんなに惨めな気持ちになるならば、こんなに惨めに悩み続けるならば、僕もあの人達の世界に戻りたいと心底思いました。

 「普通になりたい」とはつまり、「この世の地獄」という真理を忘れさせて欲しい、という願いと同義でした。

 人はなぜ新興宗教に騙されるのでしょうか。それは分かりやすい真理が欲しいからです。手触りのある真理が欲しいからです。沈黙しない神が欲しいからです。キリスト教や仏教といった歴史ある宗教はこの「沈黙する神」に対して切実に向き合ってきた過去があります。神が地上にやってきて我々を褒めてくれるわけではない、という事実に向き合っていると思います。でも新興宗教にはそれが無い。分かりやすい教祖がいる。沈黙しない神がいる。褒めてくれる神がいる。社会が提示するロールモデル、例えば「普通に学校へ通い、普通に結婚して、子供を産んで、老いていけば幸福になれる」にも同じことが言えるでしょう。社会の定めた戒律に従ってさえいれば具体的な救いがあるのですから。

 僕は、褒めてくれる神を受け入れることが出来ない体になっていました。そんなものは嘘くさくて仕方がありませんでした。僕は、何の迷いもなく社会が定義するロールモデル新興宗教に酔える人々にはなれません。だから、酔える人間になりたかった。その方が、多分楽だから。

 残された選択肢の中で最も楽だったのは、絶望することでした。全ての希望を捨ててアハハと笑うことでした。簡単です。一度全て捨ててしまえば楽しく生きることが出来ます。どうせこの世は地獄。終わっているのだから。歯を食いしばって呪詛を吐きながら必死に生きることから降りればいいのです。

 それは白旗を挙げるというということです。

 僕たちを理不尽に踏みつけてくる何か。理不尽。絶望。不条理。悪魔。

 これらに白旗を挙げるということです。

 

 でもそんなのおかしくないですか?だって、必死に生きてる僕たちより、そういう理不尽の方が偉いって、おかしくないですか?

 

 尼子司は、幼い頃、事故で右手の握力を失ったことで大好きなピアノを思い通りに弾くことが出来なくなります。司の不格好なピアノを聞いた司の父は「そんなピアノやめてしまえ」と言い放ちます。

 そんな父親に司は食って掛かります。

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 ふざけた、イジワルな神が支配するこの地上で前を向いて生きていくのならば、運命よりも自分の方が正しいと世界に証明したいのならば、きっとそいつと正面から殴り合うしかないのだと思います。素人がプロボクサー相手にノーガードで打ち合うが如き所業です。でもそれしか無いんです。

 

 僕は出来るだけ殴り合うつもりです。でも、決して一人ではないと思います。僕の友人、それは実際の友人もそうだし、好きな文学、好きな音楽……生きることに対して切実なのはきっと僕だけじゃない。

 それは「この世の地獄」と同じくらい自明なことなんです。

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