『魔法少女まどか☆マギカ(TV版)』感想 ~大人と子供についてのあれこれ~
まどか☆マギカと僕について
「今更観てもねぇ」そう繰り返しているうちに6年の月日が経っていた。
6年。中学生が成人するだけの年月だ。
僕はリアルタイムでこの作品を見ていない。
2011年の1月~3月のクール。中学1年生だった僕は『お兄ちゃんの事なんか全然すきじゃないんだからねっ!!(略称:おちんこ)』のやっすいエロに夢中だった。いろはちゃんでシコっていた。
なぜ、あんなソフトな深夜アニメノリ全開のエロでシコれたのだろう。その答えを今の僕は持たない。乳首をいじりながらkoe-koe(素人のエロボイス投稿サイト)でシコる今の僕はその答えを持たない。当時の僕のチンコだけが『おちんこ』でシコる方法を知っている。
「6年」とは、1人の少年が『おちんこ』でシコれなくなるという事なのだ。
話を戻す。有名な作品は重大なネタバレが一般常識としいて共有されている事が多い。この『まどマギ』もその例に漏れず多くの事実が作品を見ていない人間でさえ知っているほど有名な作品だ。
故に僕は「暁美ほむらが何度もループを繰り返し戦うタイムリープ物」「魔法少女は絶望すると魔女になり、その時のエネルギーを回収するのがQBの目的であること」その他数多くのネタバレを知った上で視聴した。
そんな通常なら興ざめする他ない状況にあってもこの作品は面白かった。「今更」と思っている人もしっかり観てみる価値はあると思う。
今回はそんな『まどマギ』のTV版全12話について語る。
魔法少女的であり、仮面ライダー的世界
まどマギの最大の特徴は何かと言われると、「魔法少女モノ(=少女的)の皮を被っていながらそのプロットは実に仮面ライダー(=成人男性的)的である事」にあると思う。
巴マミが死亡するまでの間、本作品の魔法少女はいわば王道的魔法少女世界を読み手に提示し、欺いてきた。
少女が謎の不思議マスコットに出会い、魔法の力を与えられる。魔法の力を使ってバケモノを倒し、街の人々を守る。
この魔法少女的世界は第三話、巴マミの死と共に葬られる。
これまでの魔法少女的プロットは撤回され、一気に仮面ライダー的プロットに変わっていく。「魔法少女は人ならざる存在である」「力を行使し続ければ人を襲うバケモノに変わる」次々と通常の魔法少女モノではあまり見られない設定が開示されていく。
この2つの設定とそれに伴う葛藤は仮面ライダーにかなり近い。例えば『仮面ライダークウガ』『仮面ライダー剣』では「力を行使し続けるとバケモノになってしまう」葛藤が描かれている。「人ならざる存在」については言うまでもない。仮面ライダーは改造人間である。
このように3話を皮切りにこの作品は仮面ライダー的世界観にシフトしたと言える。
仮面ライダー的世界とは何か
このような切り口から論じる為には「仮面ライダー的」とはどういう事なのか?について再確認しておく必要がある。
仮面ライダーの主人公は基本的に20~30歳の成人男性である。一部の例外はあるものの「ある程度の分別を身に着けた青年」が世界の平和を守るのが仮面ライダーである。
故にれっきとした分別ある大人として、大人なりに傷つき、大人なりに考えながら怪人を倒し、大人なりに「人ならざる存在である」「力を行使し続ければ人を襲うバケモノに変わる」事に向き合うのだ。
しかし魔法少女は分別ある大人の男性ではない。
思春期の不安定さ、危うさを抱えたガラスのような女の子である。
本来大人が担うべき役割を少女が担うとどうなるだろう?
あまり考えたくないグロテスクな話だ。
徹底的に男性と大人を排除した世界
2つ目の大きな特徴は「極限まで男性と大人を排除した世界観」である。
「描写しない」という形で排除する事も出来たのに、この作品ではわざわざ「男性と大人の存在を描写しながらそれらを極限まで排除」しようと試みている。
男性の排除について
まずは男性の排除について考えてみる
例えばまどかの父親。彼は主夫の役割を家庭で担い、そのキャラクター性はむしろ女性に近い。
例えば上条恭介。彼は「さやかに命をかけて守られたのに、さやかではない別の女性とくっつく」という人魚姫の王子のような情けない役回りを任されている。
例えば佐倉杏子の父親。やはり娘の好意に異常な拒否反応を示し、一家心中を強行するという情けない役割である(佐倉杏子の願いは「話を聞いてほしい」であって「洗脳してほしい」ではないので彼の教えが魅力的である事実は変わらない。それに気づけないのもバカである)。
例えば美樹さやかと電車で一緒になったホストの男。女性を道具としか思っていない卑劣な人物として描写され、女性の絶対的な敵として描写された。
ここまで極端な描写をされると、「まどマギはミサンドリー(男性嫌悪)思想の下に作られた作品だ!」と呼ばれても仕方がない気がする。
しかし辛辣な描写をされているのは男性だけではない。
大人の排除について
先程、男性に対する描写が極端だ、と説明したが実は同じ事が「女性の大人」に対しても起こっている。
例えばまどかの母親。朝自分で起きる事が出来ず、化粧品も使う番号を振らないと使えない。酒に酔って帰ってくる。まどかの父親と性別を交換しているので男性的大人のダメさを担う事になった。
例えば早乙女先生。「男性との些細なすれ違いを許容できず、いつまでも結婚できない女性」「授業中に子供たちに対して自分と付き合った男性がいかにサイテーであるかを語る」など最低の教師として描かれている。人間的に未熟である。授業中の冗談としてもあまり笑えない。
魔法少女は誰にも守ってもらえない
本来少女を守る役割を担っているべき「男性」「大人」が頼れないならば、魔法少女は誰を頼ればいいのだろう。
無論、「魔法少女は魔法少女しか頼れない」のである。これが少女達を仮面ライダー的役割=男性的であり、大人的な役割を担うに至った経緯である。
しかし、本来守られて然るべき少女が歪な役割を担えば崩壊は必至である。
歪な役割を担う子供たちへの応援歌であり鎮魂歌だった『まどか☆マギカ』
子供にとって最も過酷な事はなんだろう。それは「子供が子供らしく振る舞えなくなる事」ではないだろうか。
全ての子供が大人になる。ならばその境目には強烈な痛みが例外なく存在する。
遅い早いはあるが必ず、だ。(勿論、早い方が悲惨であることは言うまでもない)
僕もかつてそういう子供のうちの1人であった。僕にはたまたまその痛みの過程を見守っていてくれる存在が数多くあったわけだが、誰もがそうではない。
ただ痛みの中で、「いつ終わるのか」「ひょっとするとこの痛みは永遠なのではないか」そんな思考のループを繰り返したまま、社会から「大人」のラベルを貼られても痛み続けている者もいるだろう。
その痛みに寄り添って優しく見守ってあげること――鹿目まどかの願いがそうであったように――それがこの作品が存在する意味のうちの1つであるように思う。
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