キィの日記

趣味のお話とか

62 解像度上がる

 僕たちが生まれた時、目の前にいた物体は「物体」に過ぎなかった。それが徐々に「人間」と定義され、「助産婦」「母親」「父親」と定義され、少しずつ詳細に対象を認識できるようになる。もっと先へ進めば、それぞれの人間の名前、趣味趣向、生い立ちetc……どこまでもディティールを詰めていく事ができる。

 これを僕は「解像度が上がる」と呼んでいる。僕はこの瞬間が好きだ。

 例えば、数ヶ月前の僕にとってバイクは「バイク」でしかなかった。街でバイクが走っているのを見かけても「あ、バイクだ」それ以上の出力は僕の中で起こらなかった。それがふと思いったって教習所に通い、いざ自分が購入するバイクを色々検討するようになると「あれはヤマハのSR400だな」とか「あれはカワサキのninja250だな」とか「バイク」以外の情報が出力されるようになるのである。

 或いは、数年前の僕はゲイと聞けばオネエとイコールであって、それ以上の出力は無かった。ゲイビデオと聞けば、それはオネエ同士が絡むアダルトビデオなんだろうと思っていた。それがあるインターネットスラングの登場で多くのゲイビデオに触れる機会を貰ってからは、ゲイビデオに対する解像度はまるで変わってしまった。肥満の中年男性を専門に扱うゲイビデオ会社、女性向けのゲイビデオを専門に扱う会社、都内の大学生など小遣い稼ぎ目当てのヘテロ男性素人男優を数多く起用する会社……。

 こうして既存のモザイクがかった認識が、まるで旧式のゲーム機から新型のゲーム機に買い替えたみたいにまるで変わってしまう瞬間がある。

 先に挙げた例は物体の定義、形あるものの定義に関するものだが、もちろん感情や思想のような形の無いものに対してもこの化学反応は起こる。

 好きな歌詞の意味が、好きな小説の一節が、好きな俳優がスクリーンで演じた一瞬の仕草が、時間を経て「あれは、これかもしれない」とハッキリ分かったような瞬間がある。

 分かったように思うだけだから、本当は分かっていないかもしれない。ヤマハのSR400だって、本当はホンダのクラブマンかもしれないし、カワサキエストレヤかもしれない。

 ちゃんと見えるように、何度も見返すことにする。

 

※SR400を始めとしたクラッシック風バイクの車種をチラ見で見分けるのは非常に難しい。好きな人ならメーカーロゴ隠されても分かるんだろうけれど……。

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61 『響-HIBIKI-』感想

www.hibiki-the-movie.jp

 

 実質『湾岸ミッドナイト』。

 『湾岸ミッドナイト』が朝倉アキオ、悪魔のZという神と、彼らに振り回される走り屋の物語であったように。

 この『響-HIBIKI-』もまた鮎喰響という天才小説家と、その周囲の人間の物語だ。

 『響-HIBIKI-』について特筆すべきは、鮎喰響という神の中にある人間性の描写だ。『湾岸ミッドナイト』においては、神である主人公・朝倉アキオの描写よりもむしろ、人間である周囲の凡人の描写に比重が置かれている。対してこの映画『響-HIBIKI-』では、鮎喰 響という人間をどう見せていくか、という事に比重を置いているように感じた。言ってしまえば、鮎喰響以外のキャラクターはかなりの部分を鮎喰響に従属している(ただ、従属から脱しようと試みた形跡が残っているので、その点はかなり好感が持てる)。

 その肝心の鮎喰響の描写に関して、最も作り手が迷っていたのは、「神としての鮎喰響」「人間としての鮎喰響」、その二人をどう接続すべきかであろう。

 というか、「神としての鮎喰響」をやりたい人間と「人間としての鮎喰響」をやりたい人間がいて、その誰かが喧嘩しているような印象だった。それぐらい「神としての鮎喰響」と「人間としての鮎喰響」の接続はかなりギクシャクしている。

 そのギクシャクをスクリーン上でなんとかギリギリ違和感ないかなぁ、というレベルにしているのが他でもない主演の平手友梨奈である。

 脚本上、演出上で「神としての鮎喰響」「人間としての鮎喰響」の接続は失敗している。

「神としての鮎喰響」、即ち「小説という行為において背信した者を裁き、或いは愛し、或いは応援する創作の神としての鮎喰響」の描写は過剰である。とても舞台的というか、漫画的というか、スクリーンに映した時やりすぎになってしまう類のものなのだ。エンターテイメント性に振った描写なのだ。

 対し、「人間としての鮎喰響」、即ち「創作の神を担う傍ら、自身の小説を読んで感想を貰えるとニヤけてしまったり、動物園で友人とはしゃぐ鮎喰響」の描写はスクリーンにした時、絶妙によく映える。僕はこっちのリズムで「神としての鮎喰響」も描写すべきだったと思う。双方の鮎喰響を断絶する意味はこの作品に於いてはあまり意味が無いように思った。なぜなら鮎喰響は双方の断絶について悩まないからである。そもそも断絶していると思っていないのである。双方の鮎喰響を断絶させるのは鮎喰響に従属しているキャラクター、或いはこの映画を観ている我々自身、或いはこの映画を作った誰かであって、鮎喰響自身は鮎喰響を鮎喰響としか思っていない。鮎喰響をやりたいなら、こっちのリズムで神を描写した方が絶対にスクリーン映えする。

 これだけ鮎喰響の描写で断絶が起こってしまっているのは、制作側の意思統一に何らかの問題が起きたのではないかと推測してしまう。

 その最たる例がこの映画の主題歌『角を曲がる』だ。秋元康が作詞したこの歌は「本当の自分を分かってくれない周囲に対して葛藤している誰か」の歌だ。多分、当初鮎喰響はそういうキャラクターになるはずだったのかもしれない。しかし、本編の鮎喰響はそんなことで葛藤しない。というか、葛藤という機能がそもそも搭載されてない。まるで特殊な知的障害か、発達障害のような挙動をする。「本当の自分を分かってくれない周囲」の事をなんとも思っていない。もしその「周囲」が自分に仇なすならば問答無用で排除するが、その周囲が自分に干渉しないならば放置するだろう。そこに通常人間が感じるような葛藤は無い。

 だからこの歌は鮎喰響の歌じゃない。

 これは最も分かりやすい例だが、その他にも言葉にしづらいリズムみたいなところで、制作側が鮎喰響の描写を迷っている印象を感じた。

 それを平手友梨奈という役者はギリギリで接続している。スクリプト上で引き裂かれかけている鮎喰響をちゃんと接続して一人の人間に造形し、スクリーンに持ってきている。僕は本当に感動してしまった。この難しい問題を、役者がどうにか出来る範囲で可能な限り最良の回答をしている。

 この平手友梨奈の鮎喰響に対する回答を見に行くだけでも劇場へ足を運ぶ価値があると僕は思う。

60 バイクの免許を手にした。

 うおおおおおおおおおおっ。

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 燦然と輝く「普自二」の文字が眩しい。

 これで51cc~400ccまでのバイクに堂々と乗れます。嬉しいです。

 教習所に10万くらい払ったので数ヶ月バイクは買えないです。悲しいです。

 数ヶ月乗らないと不安だから、時々レンタルで乗ったりしようかな。でも一回8000円とかするんだよ。レンタルのバイク。それだったら貯金して早く自分のバイク買いたいなぁって思ってしまうよ。でも買う前に色々乗ったほうがいいのかな。自分が目指すバイク像も分かるのだろうし。

 この前は車検代が浮く250ccがいいかな、なんて言っていたけれど、教習車のCB400に乗っていたら400もいいなあと思ってしまったよ。4気筒のバイクだと排気音もかっこいいし。

 ああでも音とか、車検とか、税金とか、そういうのは本当はどうでもよくって、本当は早く遠くに行きたいだけなんだよなあ。電車とバスだけだと、行けない場所がたくさんあるんだよ。歩くと疲れてしまうような場所があるんだよ。

 

 わくわくしちゃうなあ。素敵だなあ。

57 『SWAN SONG』 切実に生きることについて

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 こんな糞みたいな世界で何かを望むのって本当に疲れると思います。そして、「僕は何も望んでいません」と何らかの形でハッキリ表明しようものなら、落伍者として蔑まれ罵られ孤立していく。だから「望むフリ」「希望するフリ」をして生きていかなくちゃならない。ですよね?

 

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55 以前、短編小説新人賞に出した小説を公開します

 以前どこかの記事でコバルトの短編小説新人賞に小説を投稿したというお話をしていましたが、すっかり全体に公開するのを忘れていました。

 特に賞とか貰ったりどっか紹介されたりは無かったので公開しても大丈夫だと思います。

kakuyomu.jp

 

 良かったら読んでみてください。

54 宿題

 期末レポートが迫ってくる。別に大した物ではない。取り掛かればすぐ終わってしまう程度のものだと思う。

 が、書けない。というより書く気がない。面倒くさい。

 大体、僕は昔から宿題というものが嫌いなのだよね。外から勝手にやってきて、ストレスを課して去っていく。運命の権化だと思う。夏休みの宿題はいつも最終日に泣きながらやっていたものだよ。なんでこんな想いしなくちゃいけないんですかって。僕が何を悪いことしたんですかって。これなら夏休みなんか無い方がマシだと思う。普段やってない特殊カリキュラムを、夏休みを理由に課すなんて悪魔の所業じゃない?どうかしているよ。

 中でも僕が一番嫌いだったのは読書感想文だった。大体、読書って選択肢の一つでしょう。無理矢理やるものでもなし。そして、読め読めと迫る大人の一部が言うほど切実に書を嗜まないことを僕は知っている。

 いや、僕だってコロコロコミックで感想文を書いてもいいよ、と言われたら喜んで書くと思うのです。『でんぢゃらすじーさん』で感想文を書いてもいいよ、と言われたら喜んで書くと思うのです。でも、それは許されない。『でんぢゃらすじーさん』を読めない大人はバカだと思いました。本当に大人って笑いのセンスが壊滅的だったな。

 僕が『ボボボーボ・ボーボボ』のアニメを観ていたときもそうでした。あんまり面白いので「ママも観ようよ!」と母親を誘ってみるのだけど「ええ……だって、アレ、意味わかんないし……」とすごく困った顔をしていた。これが楽しめないなんてかわいそうだなぁと心底思っていた。意味不明なオブジェを解する文化人の気持ちが少し分かった気がしたよ。まあ、だからこそ子供に「意味のわからないもの」を、楽しんでいるから、それだけで観せてあげられる両親の凄さが分かるのだけれど。

 ああ、それにしてもやりたくねぇなぁ。めんどくせぇなぁ。ばかみてえだちくしょう。

53

 仕方がないじゃないか。先生がそうしろと言っているのだから。

 そんなに僕って気持ち悪いのでしょうか。

 心の中であれこれ抗議を並べてみるのだが、ユイちゃんが僕と手を繋いでくれる気配はない。

 思う。6年生にもなって、手を繋いで入場するというのは、いくら運動会とはいえ、おかしいのではないか。

 僕は本番まで何度この羞恥に耐えねばならないのだろう。大体、運動会に練習っておかしいと思う。単なるレクリエーション企画でしょう?

 これは、日本の教育がどうにかなってしまったのではないか。

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